再び「時代の証言者」になったつもりで、92年のバルセロナと96年のアトランタへの出張報告をしましょう。
1991年1月のミサイルが飛び交う湾岸戦争上空の恐怖のフライトからほぼ1年後の92年春の報告です。ガスタービンコージェネのビジネスが軌道に乗り、契約した日本の顧客のヨーロッパツアー(と言ってはいけません。あくまでもタービンメーカーの調査と納入先の運転状況の現場調査)のために、英国、フランス、スペインへ旅立ました。
このツアーの最終訪問地がスペインの某化学会社のバレンシア工場見学です。バレンシアに行くためにはパリから空路バルセロナに入り、地球海沿いの太陽の道をレンタカーでドライブです。その年の夏にはバルセロナでオリンピックが開催されます。立ち寄らないわけにはいきません。空港税関ですが、ECとそれ以外に分かれていたので、当然それ以外に並びましたが、パスポートチェックに長蛇の列ができていました。アジア系や中近東系と思われる人々の列でした。EC側の列はチェックも短いためか、並んでいません。私は勇気を出して、EC側に並んだところ、追い返されることなくすぐにチェックを受けることができました。手招きで同行の顧客呼んだのはもちろんのことです。顧客に不愉快な思いをさせずポイントを稼ぎました。と同時に日本と日本人の欧州でのポジッションを確認できました。
オリンピックの開催準備の工事中で、喧騒のバルセロナの町と夜の探訪に出かけました。1992 年バルセロナオリンピック。今でも 語り草となっているロシアのエゴロワ選手との火の出るようなデッドヒートの末、敗れたものの見事に銀メダルを獲得した。 この大会で有森裕子は銀メダルの他にもう一つの栄誉に輝いている。それは「フェアプレー賞」。エゴロワ選手との熾烈な争いの真最中、最後の給水所で手にしたスペシャルドリンクのステンレスボトルを、周りに配慮して投げ捨てることなく道の脇にそっと置いたシーンが対象となったようです。 「正直言って、特別なことをしたという意識はありません。その前の給水所で同じボトルを軽く放ったときに凄い音がして皆が驚いたのを覚えていて、最後の給水所のところは道が狭いし、坂だし、観衆が大勢いたので、逆に投げるなんてことの方が思いもよらなかったんです」。強い人はやさしい心を持っている、彼女たちを見れば自然とそう思えます。でも、強さからの余裕でやさしいのか、やさしい人が強くなれるのか、それはわかりません と後日有森は語っています。
1996年3月20日から米国へ出張です。サンフランシスコ、フェニックス、ロスアンジェルス、アトランタ、ダーハムと約2週間の旅です。フェニックスが現地ではフィーニクスと発音しないと通じないことがわかりました。この旅も遊びではなくビジネス目的です。1992年のバルセロナと言い、1996年アトランタと言い、オリンピック開催年の春にその都市をよく訪問しています。あくまでも偶然ですが。
日本の女子陸上選手では初となるオリンピック2大会連続のメダル獲得したのが有森です。ゴ-ル後のインタビュ-で、「メダルの色は銅かも知れませんけれど、終わってから、なんでもっと頑張れなかったと思うレ-スはしたくなかった。初めて自分で自分を褒めたいと思います。」と涙ながらに語った映像は忘れません。「自分で自分を褒めたい」という言葉は、その年の流行語大賞に選ばれましたね。蛇足ながらアナウンサ-が有森に「白い歯の笑顔が素敵ですね」と言うと、「運動選手にとって歯は命です」と言った言葉も強烈に耳に残り、これを聞いていた日本の歯医者さん達が職業がら「その通り!」と叫んだといわれています。
A B
出張の証拠品を出しましょう。左Aはパリの高級洋品店ボルサリーノで求めたマフラーです。タグには LANA VERGINE Made in Italyと記載されています。純毛ですね。30年たった今でも愛用しています。2本買ったのですが、高いほうの1本はバルセロナのホテルに忘れました。電話しましたが見つからないとの返事。アメリカの禁酒法時代の映画に出てくるイタリアンマフィアが被っていたのがボルサリーノのハットです。店員のイタリア人はマフィアにみえて、だんだん店の奥に通されて怖くなって買わされた一番高いマフラーだったのに。
Bは両親の名前が記載されている赤レンガで、我が家の玄関に埋め込んでいます。アトランタの町のブリックプログラムに協賛(数十ドルの寄付)し、希望名の入った赤レンガがオリンピック競技場前広場に敷かれる予定。私たち夫婦のものは赤レンガのみ、両親のものには、20ドルほど追加金を払い、レプリカがその後日本に届きました。オリンピックは市民みんなで寄付して協力して盛り上げようという市民感覚が良く理解できます。オリンピック施設は税金が当たり前の日本でこんな話をきいたことがありません。レンガ番号もわかっているので、後日アトランタを訪問した時に私たちと両親の赤レンガを探し当てようと目論んでいます。ところがオリンピック競技場は大会終了後解体撤去されており、広場もなくなっているかも。残念。
遠藤憲雄(JRMN会員)